平成19年3月修了
最近「シンギュラリティ」という言葉を目にすることはないでしょうか。特異点という意味の英語ですが、現在のスピードで人口知能の能力が向上していくと2045年には人間の頭脳の能力を超えると言われていて、その時点を指す言葉として使われています。
それを脅威と捉えるかどうかは人によって違うでしょうが、人工知能がそこまで発展すると、世界は相当変わってしまうでしょう。ちょうど自働の強力な機械の出現によって、人間や牛馬の力でやっていた作業が仕事としてなくなってしまったように、現在、私達が頭を使ってやっているかに思える作業を人工知能がやってくれるようになるはずです。
例えば、私達は「判断の余地がある」ということを良く言いますが、その判断とは実はいくつかの選択肢があってそのどれに該当するかを決めるということを指す場合が多いのではないでしょうか。そのような意味での「判断」というアクションは、選択肢が非常にたくさんある場合であっても、きっと近い将来、人工知能の方がうまくやれるようになるでしょう。そういうパターンの人間の頭脳の働きは、結局、人工知能には適わないように思われます。
ところが、人間社会の判断については、これまでになかった選択肢を考え出すということも含まれます。専門家に言わせれば、それとて人口知能ができるようになるということのようですが、少なくともそれにはもっと時間がかかるでしょう。そういう技術進歩の中で、私達は自分自身の「考える」という行為をどう受け止めるか。そして考えているからこそ存在している「私」の存在をどう受け止めるか。そういう問題意識が湧いて来ませんか。
経済学には、もちろん実学としての有用性もあります。しかし、これから数十年でその有用性の一定部分は人口知能が担ってくれるようになるでしょう。
しかし、そうなっても、考える私が居て、そしてその私は何を考えるのか。人間としての頭脳の働きをさらに次の次元に持っていくために、考えるというアクション自体を鍛える必要があると思います。
人間社会の多様な出来事を経験したことのある人であればあるほど、それを材料にして頭の「考える」機能をさらに飛躍させることができるはずです。一見、頭を使っているかのように思えても、それが結局は単なる場合分けの判断であれば、それはきっと人工知能に取って代わられてしまいます。人間でなくてはできない頭の働きを鍛えるためには、じっくり考える機会をたくさん持つ必要があります。
私自身を振り返っても、ともすれば慌しさに流され、考えているようで実は考えていない毎日でした。そんな中で、大学院で学ぶ機会を得たことで、じっくり考える訓練ができた気がします。そしてその経験こそが、脳の機能はその後さらに劣化しているのですが、それにも関わらず、今でも何か新しい発想へと自分を導いてくれているように感じています。この技術革新の時代にあって自己の存在意義を確認するためにも、じっくり考える機会を集中的に持たれてはどうでしょうか。それが、今、私が大学院での勉強をお勧めする所以です。
※修了生の所属先は、原稿作成時のものです